⑨
電力用への助走
桑野幸徳(くわの・ゆきのり)
1941年福岡県生まれ。63年熊本大学卒業後、三洋電機入社。93年取締役研究開発本部長、96年常務取締役、99年セミコンダクターカンパニー社長を歴任し、2000~05年三洋電機代表取締役社長に就任。現在、太陽光発電技術研究組合(PVTEC)理事長ほか、大和ハウス工業監査役、オプテックス取締役を兼務。工学博士。
桑野が1980年に商品化したソーラー電卓は一般に普及し、三洋電機に大きな成功を齎したが、それは同時に太陽電池の社会的認知度を高めるという大きな役割も果たした。
ソーラー電卓は、上部のパネルを手で覆うと液晶表示の数字が消え、光にかざすと再び数字が表れる。ソーラー電卓が普及したことによって、〝光で発電する〟という太陽電池の特性そのものが消費者に浸透していった。アモルファスシリコン太陽電池は、その後、時計にも搭載され、ソーラーウォッチとしても話題を呼んだ。
しかし、それでも、桑野は、まだ道半ばという思いを拭い去ることができなかった。我が国のエネルギーセキュリティの向上を目指し、太陽電池でその一旦を担うという大きな目標があったからだ。アモルファスシリコン太陽電池を民生用に普及させていくことにとどまらず、電力用として利用できる水準まで性能を高めていきたかった。
桑野のこの思いが通じたのか、あるいはソーラー電卓ブームが起因となったのか。1980年から、サンシャイン計画の電力用太陽電池の開発に、アモルファスシリコン太陽電池が取り上げられるようになった。変換効率は低いが、大面積化やコスト低減への可能性があるという点が評価されたのであろう。
桑野は早速、電力用アモルファスシリコン太陽電池の実用化という新たな開発テーマを掲げ、再び走り出そうとしていた。しかし、以前とは立場も環境も違う。
ソーラー電卓で世界初の商品化を成し遂げたことが評価され、2人の部下と始めた太陽電池研究チームは、〝太陽電池研究室〟に格上げされた。さらに、所属する研究員の数も増え、このときすでに30人に達していた。桑野は初代研究室長として、これらの研究員を育成していかなければならなかった。
以前のように、昼夜惜しまず、研究に没頭するわけにはいかない。研究員の能力や資質を見極めながら、適格に指導し、研究室全体の研究開発力を高めることによって、成果を上げていかなければならない。
桑野は、部下に対して厳しく指導した。やらなければならないことは、徹底してやり遂げるように促し、できないと発言するものには、その理由を何度も問いただした。その一方で、経験がなくとも、率先して実行しようとするものには、何事にもチャレンジさせ、新しいアイデアは、できる限り広く受け入れた。
「技術開発は、すべて成功することはない。成功もあれば、必ず失敗もある。ただ、倒れるならば、前に倒れなさい」。
桑野は、自らの体験と重ね合わせながら、自発的に挑戦し、前進し続けことの重要性を強く伝えた。この指導法は若手の研究員にも受け入れられ、桑野の研究室には、モチベーションの高い研究環境がつくられていく。桑野は30人の部下と協働して、新たな研究に取り組んでいった。
なかでも、電力用アモルファスシリコン太陽電池の開発にはこだわり、課題である変換効率の向上に挑み続けた。光の吸収率を高めるために、発電層を2層に重ね合わせるなど、様々な方法を試した。
しかし、なかなか成果が上がらない。アモルファスシリコン太陽電池の性能は徐々に向上したが、それでも、結晶シリコン太陽電池の技術的進展には及ばなかった。桑野は、電力用として利用できる水準として、モジュール変換効率10%を目標に設定したが、アモルファスシリコン太陽電池のモジュール変換効率は当時、6%程度であった。一方の結晶シリコン太陽電池は10%を超え始めていた。
見かねた、経営幹部は桑野を呼び、結晶シリコン太陽電池の開発も始めるように説得した。それでも、桑野は、アモルファスシリコン太陽電池に強いこだわりがあり、結晶シリコン太陽電池の開発にはなかなか踏み込めなかった。た
だ、経営層の要求をいつまでも放置しておくわけにもいかない。そこで、桑野は発想を転換する。アモルファスシリコン太陽電池の発電層の下に、薄膜多結晶シリコン層を置く2層タイプの太陽電池の開発である。
アモルファスシリコン層を2層重ねる方法では、思うように発電性能が上がらない。では、アモルファスシリコン層と結晶シリコン層という異なる物質を組み合わせてはどうか。つまり〝へテロ接合〟である。これは、アモルファスシリコン太陽電池の開発の一環であり、かつ経営層の望みどおり、結晶シリコン太陽電池の開発に取り組むことにもなる。
こうして着手したヘテロ接合の研究開発であったが、思いもよらない結果を生むのである。(文中敬省略)
この記事を読むにはWEB会員専用アカウントでのログインが必要です