[特別対談 第15回]

PVビジネスの大義

太陽光発電技術研究組合(PVTEC) 桑野幸徳名誉顧問 × ESI 土肥宏吉社長

ヨーロッパ・ソーラー・イノベーションの土肥宏吉社長による特別対談。今回は、太陽光発電の技術開発から産業振興まで市場の礎を築いたPVTECの桑野幸徳名誉顧問をお迎えして、PVビジネスの大義を考える。

土肥氏●桑野さんは、世界で初めてアモルファスシリコン太陽電池の工業化を成し遂げられ、高効率太陽電池『HIT』を開発されました。偉大な研究者でありながら、2000年からの5年間は、旧三洋電機の社長に就かれ、経営の舵取りをされていらっしゃいます。

その一方で、電力会社と交渉して日本初の系統連系を実現されたり、政府と折衝して補助金を創設されたり、あるいはJPEA(太陽光発電協会)の前身である太陽光発電懇話会を結成されたりと、産業振興から市場形成まで太陽光発電業界の基盤をつくられました。

そこで今回は、桑野さんがどのような思いで太陽光発電と向き合ってこられたのか、お聞かせいただくことによって、PVビジネスの大義について考察できればと思っています。

 

桑野氏●最近は、FIT価格の減額や系統接続問題による経済的側面を挙げて、太陽光発電市場の衰退を予測する声が上がるようになりました。実際に撤退する企業も出ているようですが、そのような方々には本当の姿を見てほしいと思います。

日本では、太陽光発電設備が個人住宅に約200万件搭載され、出力10kW以上の太陽光発電所も含めると、稼動済みの設備容量は40GWに達する勢いです。40年以上前、私が太陽光発電の研究を進めていた頃は、1MWにも満たない規模でしたよ。

当時はコストも高かった。40年前の太陽光パネルのW単価は2万円でしたから、現在の500倍です。とても事業になるかどうかなど考えられる段階ではなかったのです。それでも太陽光発電に夢を託し、皆必死で開発していました。当時と比べると、今の環境は遥かに恵まれています。

 

土肥氏●桑野さんは、1979年にアモルファスシリコン太陽電池で世界初の工業生産方式を確立するという偉業を果たされましたが、そこに至るまでには、言葉では表せないような努力があったとお察します。しかしなぜ、当時、海の物とも山の物と分からない太陽電池の開発に、それほど必死になれたのでしょうか。

 

桑野氏●太陽光発電を何が何でも普及させなければならないという確固たる理由があったのです。国が太陽光発電に取り組んだのは73年のオイルショックがきっかけです。石油価格が4倍に高騰し、日本経済は疲弊してしまったので、エネルギー安全保障の観点から代替エネルギーを普及させなければならないとの考えが生まれ、74年にサンシャイン計画が発足しました。つまり、太陽光発電には大義があったのです。

プロフィール●土肥宏吉(どひ・こうきち) 1973年東京都生まれ。97年一橋大学商学部卒業後、遠心分離機大手の巴工業に入社し海外営業に従事。2011年ドイツで太陽光関連企業を設立。12年に太陽光専門商社ESIを設立し、代表取締役に就任。