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独Qセルズ破綻 価格競争脱落

中国勢、軒並み赤字 米ファーストソーラー、2千人リストラ

製品の価格競争が熾烈さを極め、太陽電池セル・モジュール企業の収益が悪化の一途を辿っている。採算度外視の値下げバトルは、まるで生死をかけた〝デスマッチ〟の様相を呈している。もはや体力勝負に突入しており、セル・モジュール事業で赤字を計上しても、補填できる事業収益や蓄えがあるか、否かが勝敗を決する。それだけに、この数年で急成長を遂げたセル・モジュール専業ベンチャーは危殆に瀕しているのであるが、この惨状を象徴する出来事が4月2日に起こった。かつて世界トップに君臨した独Qセルズの経営破綻だ。11年からPV(太陽光発電)企業の戦線離脱が後を絶たないが、とりわけ同社の倒産は世界に衝撃を与えた。

栄光の10年

Qセルズは4月2日、事業継続を断念すると発表し、3日にはザクセン・アンハルト州デサウロスラウの地方裁判所に破産申請した。その幕引きはあまりにも突然で、同社の海外子会社の社員は、翌日の報道で知ったという。

だが、同社はここ数ヶ月、債務再編を目指し、ドイツ国内の銀行に融資を依頼して回った。手段を尽くして資金調達に奔走したが、11年12月期決算は、予想以上に落ち込み、最終損益は8億4580万ユーロ(約913億円)の大赤字。負債総額は約12億ユーロ(約1290億円)に膨らみ、債務不履行。倒産を余儀なくされたのである。

07年には、太陽電池セルの世界トップメーカーとして名を馳せ、フランクフルト株式市場を賑わせたQセルズが、なぜ経営破綻に追い込まれたのか。同社の足跡から探る。

Qセルズは99年、社員僅か十数人のベンチャー企業として産声を上げた。当時ドイツには、モジュールメーカーが乱立していたが、セルメーカーは限られていた。そこで、創業メンバーはセル製造に着目し、品質(Quality)が均一なセルをつくるとの理念を掲げた。『Qセルズ』の由来である。旧東ドイツのライプチヒ市近郊の町、タールハイムに本社を構え、01年より結晶シリコン型セルの生産を始めた。その後、僅か6年で世界トップへ奇跡的な成長を遂げるわけだが、それを可能にしたのは、創業メンバーの一人で、後にCEO(最高経営責任者)となるアントン・ミルナー氏の存在である。

氏は英国人で、石油メジャーのロイヤル・ダッチ・シェルに勤め、93年よりマッキンゼー・カンパニーで経営コンサルタントに従事していた。そして氏の磨かれた経営センスが、良くも悪くも、Qセルズの興亡を導く結果となった。

ドイツでEEG(再生可能エネルギー法)が成立し、FIT(全量買取り式の固定価格買取り制度)が導入されるのが2000年だから、ミルナー氏はその1年前に、早くもPV産業の急激な興隆を予測していたのだろうか。99年のQセルズ設立後、〝選択と集中〟を掲げ、あらゆる経営資源を徹底してセル生産に集中させた。タールハイムに本拠を構えたのも、人件費の安価なドイツ東部で生産することによって、価格競争力のあるセルを製品化するのが狙いだった。

PV需要が伸び始めると、ミルナー氏はセルの原料であるシリコンの確保に動く。セルの価格競争力を維持するには、原料の安定調達が欠かせない。シリコンの需給逼迫を未然に察知し、価格が上昇する前に、シリコンメーカーと5〜10年の長期契約を結んだ。この先見性と、迅速な経営判断が功を奏し、04年以降、ドイツのPV需要の成長を、自社の事業拡大に取り込むことができた。

瞬く間にセル生産を拡大し、07年末にはシャープや京セラら日本企業の独擅場だった太陽電池生産に参入すると、一躍、世界トップに躍り出る。08年には自社の研究開発センターを立ち上げ、高い技術力の獲得に力を入れようとしていた。

だが、ちょうどその矢先、09年年初から、予期せぬ事態が発生し、それまで築き上げた成長モデルが崩れ始める。皮肉にも、同社にとって、創業10年目という節目の年だった。

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